fbpx

全日本第2回モトクロスレース出場時の伊藤さんとヤマハ「YA-1」(1960年)画像提供:本人

【バイク歴65年】88歳で大型バイクを乗りこなす現役ライダー伊藤静男さんにとってバイクとは?

いわゆる高度成長期と言われる1950年~1972年の間を振り返ると、1964年の東京オリンピックを機に、道路整備や高速道路拡張などといった交通環境の整備とともに、価格の安い大衆車の普及によってモータリゼーションが一気に進んだと言われています。

バイクの世界においても、故障が少ない、長持ちする、大きい(排気量)がカッコよい、高性能が一番、斬新なスタイリングなど、様々な価値観の変化を経て今に至っています。

そんな移りゆく消費者ニーズによって変遷するバイクの進化を横目に、1957年からバイクに乗り始め、それから65年を経て今でも楽しんでいるライダーと巡り合いました。

今でも現役でツーリングやトライアル※などを楽しむ現在88歳の伊藤静男(以下、伊藤さん)さんに、バイク業界を黎明期から知る生き証人として伊藤さんの見てきたバイクの歴史と、自身の歩んできたバイクライフについてお話を伺いました。
※トライアルとは、岩場や崖など、高低差や傾斜のある土地に設定されたコースを、バイクに乗ったまま、いかに足をつかずに走り抜けることができるかを競う競技のこと。

 

最初のバイクはエンジンもミッションもメイドイン名古屋

画像提供:本人

伊藤さんがバイクに乗るきっかけとなったのは「免許くらい取ってきなさいよ!」という当時の彼女からの一言。バイク免許を取得してから、伊藤さんが初めてバイクを購入したのは1957年のことで、4ストローク200ccの山内輪業・富士工業製「シルバースター号」(1955年式)の中古車を45,000円で手に入れました(大卒初任給が13,000円の時代) 。このバイクは、名古屋にあったホダカというメーカーの3速ミッションに、同じく名古屋の榎村製作所製エンジンが搭載された、正真正銘“メイドイン名古屋”のバイクでした。

また、この頃の名古屋は“バイク王国”と言われ、部品メーカー含めると100社前後のバイク関連メーカーがありましたが、後の伊勢湾台風(1959年)による甚大な被害によって、わずか2年間あまりでほとんどのメーカーが途絶えてしまったそうです。

「バイクに乗り始めた1950年代後半の頃は、クルマもバイクもオイルもガソリンも、まぁそれはお粗末でね。ところが、1960年くらいから全てが飛躍的に向上して、急激に世界と肩を並べるほどにまで進化したのは驚いたよ。」と、伊藤さんは当時を振り返り語ってくれました。

 

伊藤さんとヤマハ「YD-2」阿蘇山火口にて(1957年)画像提供:本人

1958年秋には、250cc2気筒のヤマハ「YD-2」で九州ツーリングを敢行しました。当時は国道一号線でさえ半分近くが未舗装路であったとのことから、非常に過酷なツーリングであったことは言うまでもありません。

その後も次々と新しく時代を塗り替えていく最新鋭のバイクたちと出会い、乗り換え、所有し、伊藤さんのバイクに対する情熱は冷めることがありませんでした。

 

バイク好きが興じてモータースポーツにも熱中

当時の小牧空港で行われたレース。ニューベビーライラック号に跨る車検待ちの伊藤さん[中央]( 1959年) 画像提供:本人

1957年から3年間でバイク7台を乗り継いだ伊藤さんのバイク熱は冷めるどころかさらにヒートアップし、近所の在日米軍たちと付き合いをきっかけとして、ついにはモータースポーツにも傾倒していきました。

改造したカブでトライアル競技会に参加したほか、1961年に発足した日本モーターサイクルレース協会(現在のMFJ※)の開設や、鈴鹿サーキットの竣工も追い風となって、ロードレースのライセンスも取得しました。

当時、鈴鹿サーキットがオープンしたときに、伊藤さんは知人の誘いもあって500kmの耐久ロードレースに参戦したことがあったそうです。そのためにバイクも新調し挑んだものの、後に自動車レースの第一人者となる生沢徹氏も参戦していたためレース結果は散々な結果となり、一度きりの参加でオフロードに戻ったそうです。

また、当時、伊藤さんの自宅周辺で宅地造成工事が盛んに行われており、トライアルやモトクロスの練習をする場所が近くにあったことも、ひときわオフロードに情熱を傾けるようになった大きな理由のひとつのようでした。
※MFJとは、一般財団法人日本モーターサイクルスポーツ協会の略称。日本国内のモーターサイクルスポーツを統轄する機関。

 

和歌山県信太山でのレース模様。画像提供:本人

年に一度の浅間高原や和歌山の信太山、富士・朝霧高原でのレースは、非常に多くの観客が訪れており、新聞や雑誌などのメディアでも大きく取り上げられていました。

 

画像提供:本人

1963年には鈴鹿サーキットの北側にモトクロス場が完成し、毎週土曜・日曜は“鈴鹿モトクロス”が開催されていました。伊藤さんの家から鈴鹿サーキットまでが片道2時間程度だったこともあり、毎週自走でサーキットに通っては参戦していたものの、毎回予選落ち敗退だったため、午前中のうちに帰宅していたそうです。

 

西へ東へバイクを変えながら東西奔走

突如浅間レースに姿に現したホンダ初の4気筒マシン(1959年頃) 画像提供:本人

1969年を振り返ると、伊藤さんは土地を購入してマイホームも建て終わっていました。当時34才にして妻と一男一女という恵まれた家庭を持ちながら、それでもバイクに対する熱量は変わらず、CB450、DT-1、AT125、XS650、TX750、SL250やその他多くの輸入車と、驚異的なバイク遍歴を重ねていきました。

また、ツーリングや街乗りなどで日常的にバイクを楽しむだけではなく、モーターサイクルスポーツにも情熱を注いでいたため、他の人よりも2倍バイクを楽しんでいたかもしれないと伊藤さんは語ります。

なお、ツーリングの行先は日本全国、津々浦々。バイク歴が50年を超えた2004年の春には、東北から茂木(もてぎ)まで2,500kmのロングツーリングを完走しており、体力の衰えを微塵にも感じさせないアグレッシブな伊藤さんでした。

 

一年の初めは富士山を見に行くツーリング

画像提供:本人

伊藤さんは今年の1月にも一人朝早く起きて富士山を見るためにソロツーリングをしています。「今年で最後かな」などと考えがら走る正月の富士山ツーリングは、もうすでに15年も続いているそうです。

バイク仲間による誕生日のお祝いとしてマスツーリングをしたり、孫が普通自動二輪免許を取得した際には、バイク免許取得記念として親子三代でツーリングしたりと、仲間にも家族にも好かれる伊藤さんは大忙し。

 

バイクが与えてくれたもの。バイクに対する想いとは

孫[左]、伊藤さん[中央]、娘[右]、3人でのツーリング。画像提供:本人

人生もバイクも大先輩であるにもかかわらず、取材時はとても丁寧に受け答えしていただいたことが印象的で、そんな伊藤さんの柔和な人柄が皆を惹きつけているのだと確信しました。

「私は飽くまでもアマチュアであり、業界人などでもなく、ただ22歳から今でもバイクに乗り続ける“いちライダー”であり、モトクロス、ダートトラック、トライアル、ラリー、ドラッグレース、ロードレースなどに参加することで、全国各地に様々な仲間ができた、ただそれだけです。」と、伊藤さんは笑顔で答えてくれました。
さらに、娘さんやお孫さんがバイクに乗り始めたきっかけを訊ねると「私は決して薦めたわけではないので、血筋か環境なんじゃないかな?」と、家族の顔を思い浮かべながら少し照れた様子でした。伊藤さんのバイクを楽しむ才能でありDNAは、ひ孫や玄孫その先も脈々と受け継がれていくことでしょう。

 

最後に、伊藤さんにとって「バイクとは?」という命題を投げかけてみました。

人に伝えようにもなかなか難しいほどに想いが詰まっているようで、少々の沈黙があった後に「やっぱり“生きがい”……かな。」と。

「バイクに乗ることで若返るような感覚に近いですか?」と投げ返すと「それは確かにそうかもしれない!88歳の私からバイクを取り上げたら、次の日からどうなってしまうか想像もつかないよ!」と、洒落を飛ばすほどまだまだバイク熱冷めやらぬ様子でした。

一生バイクに乗り続けたい、そんなライダーたちの願望を体現する伊藤さんは、ひとりのライダーとして、親として、男として、目指すべき背中を持った非常に魅力的な方でした。

伊藤静男さんFacebookページ

https://www.facebook.com/shizuo.ito.50

RECOMMEND

あなたにオススメ